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主祭神、教えについて紹介します。

金光教とは

寺は仏教、神社は神道と、教義・教え・祭神なども異なります。金光教はかつて神社新道に所属していましたが、現在では教派新道に所属しています。そのため、祭服・儀式等は神社などの新道系の形をとります。神社では、各社ごとにお祀りしている神様が異なるように、天地金乃神、生神金光大神を主祭神とします。

また他宗を否定せず、決して信仰の強要をせず、365日いつでもだれでも、取次(願いの相談)が受けられるというところも特徴です。

主祭神

天地金乃神

・この天地自然から生を受ける人間は、天地自然が親そのものである。一生死なない親がついてくださると思えよ。

日本では様々な宗派、宗教があり、教え、神様も様々です。私たちは、神棚にお祭りされている神様は拝みますが、神様の働き、というものにありがたさを見出し、拝んでいる方はどれだけいるでしょうか。いかに有難く御本尊を拝んでも、その神様の働きをおろそかにしたのでは、どうでしょうか。
あらゆるものを生かし、育む、天地の働きそのものが、天地金乃神であり、私たちはこの天地自然の中で生まれるのですから、神と人は、親と子のようなの 関係である、としています。

生神金光大神

江戸時代に実在した人物で、金光教を開いた方です。日常の様々な難儀に出会うも、自身に起きてくるすべてのなりゆきを神様の働きとして身を任せ、信仰を深めていきました。安政6年より、畳10畳ほどの自宅を広前とし、参拝する多くの方々を受け入れ、願いを神に取次、その教えを多くの参拝者に伝えていきました。現在の取次のスタイルも、ここから生まれたものです。

教えにふれる

・信心は日々の改まりが第一である。毎日元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思うて、日々うれしゅう暮らせば家内に不和はなし。

朝目が覚める事、食事がいただける事、排泄ができる事、そのすべて一切を嬉しく有難く受けることは、心を大きく育てることにつながります。同じ日は一日とてありませんし、その日その瞬間を大切に過ごすことで、自己の改まりになるのです。

・此の方の行は水や火の行ではない。家業の業ぞ。行は無理によそへ行ってせんでも、わがうちでできる。

滝に打たれたり火の行では、その瞬間はありがたい気持ちになりますが、日常生活で不平不足が出ては意味がありません。家業の行、というように、人と人との関係や日常生活の事柄一切を行と取り組めば、それが行となります。

・難はみかげの受けはじめである。

人間関係のトラブル、病気などの悩みは、私たちの人生につきものです。この難儀を含む天地の働きすべてが神様そのもの、と説きます。そこで、その難儀とどのように向き合い、受けていくかということが鍵と言えます。私たちにとって都合のいいこと、悪いことも、神様の働きであると思える心が育っていきます。むしろその難儀こそ、私達の心を育てる最高の材料だと説くのです。その材料で心が成長していくことが大切なのです。